SS


 薬売りである更紗が語り始めたのは、とある人物の話だった。

 それは、白い部屋の中で起こった、誕生のお話。

 それは、死んで生きて……『生かされてしまった』嘆きのお話。


 望まない『生』望まない『命』好奇心の果てに生まれた……。


――――何者にもなれなかった自分は、何なのだろう?


 昔々、それこそ気が遠くなるほど昔の話。神様と呼ばれる者がおらず、尊ぶべきものがおらず、ただただ人が『生きて』『死んで』いた頃から。

 そんな頃から存在していた。

 目を閉じて、瞼を開いて、その間に人は幾重にも死んで、その間に人は幾重にも生まれて、繰り返し、繰り返し。ひたすら繰り返されるそれ。

 ただただ、あるべきものがあり、あるべきものが生き、あるべき姿が朽ちて死んでゆく。無かったことになってゆく。

 ただ、それだけの世界。

 自分が誰かと、そういうことを感じて、死ぬまでの間。自分は『自分』として存在していて、死んで、生まれて、また『自分』が作られて、そして死んでゆく。

 気づかない間にそれらは巡回し、巡ってゆく。

 そう、そうであると、思っていた。

 自我を失い、やがて輪の中で循環し、喜びと悲しみを繰り返して浄化され、また解けてゆくだけの存在であった頃。

 その頃、そんなことは考えたことなど無かった。

 そんなちっぽけな、存在だった。

 

 ただそれだけだったのに。

***

「おや?」

 驚いたような声に、目を開く。きょろりと左右を見渡す目玉が『自分のもの』であると気付いた。不可思議な場所だった。真っ白な、けれど見たこともないような白色の何かがきっちりとまっすぐ積み重なっている。綺麗に整えられた石。こんなにもまっすぐで、四角いそれを初めて見た。

 ぐらぐら揺れる頭の中は霞がかかったようにぼんやりとしていておぼつかない。投げ出された四肢はぴくりとも動かなかった。

 首を動かそうにも重くて重くて叶わない。

 自分の身体であるはずのそれは、ぴくりとも、動こうとはしなかった。

「……おやおや。これは……」

 凛とした、何かの楽器のような声が響く。霞がかった頭の中にぴんと鳴り響いた。綺麗な声だと、そう思った。目玉だけを動かしてその声の主をみやれば。

「……」

 見たこともないような、美しい女性がそこにはいた。

 自分を見下ろして、少しばかり目を見開いている。口元には紅がうっすらと引かれ、涼し気な目元にかかるひやりとした髪の毛は見たことのないような色味を帯びていた。

 まるで水のようなその色は、見たこともないのにどこかその女性にしっくりくる。不思議な事もあるものだと、ただ思った。

 今までに見たどんな『人』とも違う、その姿はただただ美しく、惚けるほどに惹かれた。そんな女性から見下されている、その双眸に映っていることに愉悦を感じてしまうほどに、その女性は魅力的だった。

 しかし。

 そんな見目麗しい女の口から飛び出たのは。

「君がまさか『成功作』になるだなんて思っても見なかった」

 実に楽しげで、驚いたような、おどけたような声。

 形の良い唇が弧を描き紡いだその言葉は。

 耳慣れない、言葉だった。

***

 それが、始まりだった。

――――なにものにもなれない、自分という存在の、始まりだった。

「『8521』それがお前の呼称だよ」

 そう、女は言った。

 見目麗しく誰もが振り返るような美貌と美しい声が恐ろしく冷たい言語を発し、言葉を紡ぐ。

 喜怒哀楽を削ぎ落としたような人形、というわけではないのに。どうしてかその横顔は絡繰のように無機質で、能面を貼り付けたようだと、そう思った。

 女は自身を『神』だと言った。

 神様と呼ばれるものは、日本古来、八百万の神々が存在していることは学に疎い村々の子供達ですら知っていることだ。しかしこの女は自身を『神』だとそう言ったのだ。

「……」

「そのうちお前にもわかるさ。なぁに、印度からやがて中国、中国から日本へと渡っては来ているんだ。まだまだ知名度が足りていないがね」

「……」

「私の言っている言葉は分かっているだろう? 知識が無いだけでお前は『能無し』じゃない」

「お前には色々してもらいたいこともあるしね。……無駄に『いきもの』を創っているだけだと上から潰されてしまうんだ。だから私もそれなりに考えなければいけない。……ヒトというのはそうやって『生きる』ものだ」

「……」

 ぼこぼこと、まるで地下水が空に焦がれて顔を出すように、幾重にも連なった泡たちが上へ上へ我先にと浮かび上がり、消えてゆく。薄く透明な、けれどどこか濁った硝子と呼ばれる壁が隔てるその向こう側。

 冷たい場所だった。

 微睡むような、空気は重く、ただただどんよりとした曇り空のときに感じるようなしめりけを帯びたものがじっとりと身体にまとわりつくような。

 ぱちりと蝋から爆ぜた橙色が空中に飛散する。

 おかしな場所だった。

 そんな場所に、何故か一人きり。たった、一人きりでそこにいた。

 太陽は見えず、空もない。ただただこぽこぽと不規則に連なる音達と、時折爆ぜる火、そして大量に積まれた本や巻物がそこかしこに並べられている。

 神様と自身を呼ぶ女だけが『話をする』生き物だった。

***

 時間の感覚もなくなってきたころ、戯れに『話をする何か』が部屋に入ってくるようになった。それらは形としてはヒトに近く、けれどヒトではないようで。

 ときにそれは浮いていたり、ときにそれは形がいびつであったり、大凡『人』ではないものたちが、連れてこられた。

 それらはときに言葉を話し、ときに書物の読み方を教えてくれた。言葉として話せないものもいたが『書き方』を教えてくれたし、一部の事柄にだけ妙に詳しいものもいた。

 途方もない時間を持て余していた自分にとって、それらは同じ時間を共有し、いろいろな事を教えてくれる隣人だった。

 気付けば、知識のない『能無し』ではなくなっていた。

 それだけ多くの時間が、流れていた。

 それらは一度部屋を訪れたあとは、誰一人かぶることはなかった。人には呼称があると知っていた自分は名前を聞いたが、その誰もが首を振ったり、俯いて答えることはない。ある時から聞いても無駄なのだなと悟った自分は、呼称を聞かなくなった。

 もう二度と会えないことも、同時に分かっていたからかもしれない。

 彼らは女に連れてこられ、一定時間を経たあとは、連れて行かれた。その背中を何度も何度も見送った。けれどだからといって自分も外に出たいと言葉にしたことはなかったし、思ったことも無かった。

 どうしてか、それは簡単だった。

 そうしたい理由も、そうしなければいけない理由も、自分には存在しなかったから。

 ただ与えられたものを消化して、消費して、そうして知識を得ていった。いつの間にか覚えたことも増え、思考することを知り、外の世界についても詳しくなった。

 それでも、そのドアの先に、興味を見出すことはなかった。

 思えばそれは可笑しいことだったのだけれど、当時の自分には何の違和感も存在していなかったのだ。

「8521、今日は面白い隣人を紹介しよう」

 何回目かのある日。女はそう自分に言った。

 それは何回目かの隣人を見送ったあとの出来事。

 能面のように貼り付けられた表情がいつもより楽しげで、その双眸はどこか子供のようにキラキラと輝いているようにも見えた。その好奇心に染まった目に、居心地が悪くなったような気がしたのは気の所為なんかじゃない。

 自身の力で読めるようになった漢詩の分厚い本を横において、女の後ろに控えていた隣人を迎えようと、その姿を視界に入れようとして。

「……!」

 驚いたのだ。

 初めてだった。

「953。お前と同じ『成功作』だ」

 せいこうさく、と呼ばれた呼称をもったもの、それが今日の隣人だった。

 やや長めに、けれど整えられた黒髪。きりっとした双眸。けれどそれは、どこか冷たく底冷えするような色味を帯びていた。背丈は女よりも低かったが自分よりは高いだろうか。自身を見ることが出来るものが部屋には無かったのだから、比べるべくもない。よろよろと立ち上がってようやく『自分よりも背が高い』ことに気づけた。

 着物も上等な布を使用したものを着用している。気品というものをしっかりと見に付けているその姿に気後れしてしまい、そっと物陰に隠れてちらちらと伺うように視線を投げかけてしまった。

 それほどに、その隣人は『自我』がしっかりとしていたのだ。

 しっかりとした気配を、感じたのだ。

 初めてだった

 女と同じ、四肢があり、欠損がなく、そして。

「哀れだな」

 こんなにも、哀しげに、疎ましげに、言葉を口にされたことが。

「8521。……どうして私に引き合わせたんですか」

「お前が久しぶりに還ってきたからね? いいじゃないか。弟のようなものだ」

「……」

 弟、という言葉を脳内に溜め込んだ言葉たちから引っ張り出す。【弟】……『親が同じで、あとから生まれた男子』

 脳内で言葉がするすると導き出されたものの、その意味がよく分からず首を傾げた。

「おと、うと?」

「……平等様、何も聞かせていないんですか。……この分だと、自身が『なにもの』かも理解出来ていないようですね」

「……?」

 それは、純粋な疑問だった。

 多分、初めてだった。

 自分はなにものなのか。自分というものはなんなのか。隣人たちとは違うという認識は微かにあったものの、それらとの違いを模索することも思考することもしなかった、自分。

 まじまじと、両の掌を見て、足元を、見て、そして。

 数歩先に存在している、存在を視界にいれた。

 

「おとうと、ですか? じぶんが?」

「はは。お前は自分が何なのか、疑問に思ったこともなかったのだね。まあ、そうか」

 愉快そうに、けれど笑っていない目が笑う。決して悲観している訳でも、嘲笑している訳でも無かった。ただ、事実を述べただけに過ぎない。

 そんな女の隣で、眉を顰めて苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた隣人がいる。

 表情がくるくると変わる。

 驚いた。

 今までの隣人たちは皆無表情で、ともすれば顔のないものも、えぐれていたものもいた。眉はこんなにも上下しなかったし、口は開かなかった。

 開く口が無いものもいたし、目が機能していない隣人も多かったからだ。言葉が、声色が、表情が、くるくると変化する。

 この部屋には、こんなにも変化するものが存在したことはなかった。

 色が、生まれたようだった。

 昔々、遠い昔に。見た、知っていた何かが脳内にかすめる。

 この部屋の外には、きっとあるもの。

 空、川、木々、そして。

「……あ」

 突き抜けるような青。春には小鳥がさえずり、花が咲き乱れ、夏には蝉たちがその身を焦がし歌う。秋には真っ赤に染まった木々たちが山を彩り、様々な恵みをもたらす。冬はしんしんと積もる真っ白な雪。色を無くした世界、けれどこの部屋のように無機質なものでは決して無かった。

 めぐるもの、変化のある世界。当たり前のもの、色、音、景色、そして。

「……人、だ」

 霞が晴れたような気分だった。

 両の目で見据えたその姿は、先程よりもくっきりとその輪郭を映し出す。目鼻立ちのはっきりした、凛とした表情のその男は、隣の女よりも幾分か若いようだった。けれど声変わりはすでに終わっていて、しっかりと大人の男性であることがわかる。

「……人、人だ。俺、なんで、ここは……?」

「ああ、やっぱりお前はちょっと壊れていたようだ。ものを叩いて直すという荒療治はどうかと思っていたけれど、まあそれもありなのだね。勉強になった」

 

 こんこんと自身の頭を小突きながら、女は笑った。

 相変わらず能面のような、目の奥が笑っていない『笑い方』で自分を見ている。

「953、やっぱりお前は凄いね。兄としてしばらく教育してやると良い。時間はまだあるだろうしね」

「……」

「じゃあ私は行こうかな。まだ作らないといけないものは山ほどあるんだ。発展途上の世界というのは、良いものだね。日々人を進化させる。変化と進化は人の価値を高めてくれるものだ。知的好奇心を失ってはいけないね」

 先程まで感じなかった『楽しさ』を宿したその声は、弾むような(実際にはずんでなどいないけれど)声色で消えていった。残されたのは、弟と呼ばれた自分と。

「俺が、弟だったら……貴方は」

「ふざけないでもらおうか。お前と兄弟になった覚えなど無い」

 兄ではないと言う、隣人だった。

***

 数分か、数時間か。

 意思を明確にもった隣人と無言でただそこにいることがこんなにも辛いことだったことを、初めて。いや『久しぶり』に感じた。

 ちらりと盗み見るように見上げるその先には、眼光鋭く睨みつけてくる双眸がある。

 びくりと身体を揺らして大げさに視線を逸してみても、その視線が揺らぐことはない。

 射抜くようにただまっすぐ、自分を見てくるその視線が怖かった。

 何に怯えることがあるのかと自分に問うてみたものの、生物としての危険を感じているのだと思えばなんてことはない。蛇に睨まれた蛙は縮こまってしまうものだ。

 気を紛らわせようと近くにあった本を取った。それは数十枚の紙を糸で束ねているもので、綺麗に筆で書かれた漢字だらけの文章は妙に高まっていた心臓を落ち着かせる。

 文字の羅列を舐めるように見て、視線から気をそらす。

 その文字達は、意味を持っていた。今までただの『文字』として『言葉』としてただ見ていたはずなのに、今ではその文字や言葉と記憶が結びつき、イメージになって思い描くことができるのだ。

 不思議だった。

 頭のなかに、巨大な再生機のようなものが生まれたような気持ちだった。

 唐突に思い出した、情景を、記憶を、言葉と文字に結びつけてゆく。浮かび上がる景色、思い出す人たちの暮らし、知っているものは明確にイメージとして浮かび上がった。知らないものは想像で補い、そしてわからないものだけが真っ白で、空白になった。

「……お前は」

「?」

「お前は、自分が『なにもの』か、知っているか」

 真っ白な空白は、自身のことについてもそうだった。

 イメージしても、記憶を弄ってみても、文字と言葉を結びつけようとしても、難しくて、それはとても難解だった。

 隣人たちは皆自分を見ているような素振りはなく、教えてくれるようなこともなかった。自分が何者か、という問いかけをしようなどと多分互いに思っていなかったからだ。

 誰も疑問を持たなければ、そもそも疑問は生まれるべくもない。そして彼らの多くは自分というものをそもそも見ていないような、虚ろな目でそこに存在していた。隣人たちの多くは、そうだった。

 

 この、男を除いて。

「貴方は、知っているんですか?」

 するりと言葉が出て来る。敬う言葉、言葉遣い、目上の人物への態度、昔々、遠い昔に発していた『誰か』の声が聞こえたような気がした。耳に馴染むようで、知らない音のようで、むず痒い気持ちが胸に広がる。

 ぞわぞわとした、何かが体の中を這いずっているような、そんな違和感だった。

「……知っている」

「なにを?」

 言葉はそこにあり、文字は輝き、記憶にひも付き、イメージとして存在する。記憶はどこで得たもので、どうしてそれが紐づくのか。不思議でならなかった。

 漠然とした不安、期待、なぜそうなのか、どうしてそう思うのか。

 目まぐるしく変化する事象に、感覚がついていかない。

 男の双眸は意思をもっている。はっきりとした、意思。

 それがどうしても気になって、心にぐさりと刺さったような気がして、言葉を待った。聞いてはいけない、見てはいけない、それはそう。

「俺たちが『なにものでもない』存在だと言うことを」

――――Pandora。後に知ることになるその箱の名前がぐざりと刺さったまま抜けない棘になった。

***

「どういうこと、ですか?」

「言葉通りの意味だ。馬鹿ではないなら思考しろ」

「……」

 突き放すような物言いだった。仕方なく咀嚼するために言葉を思い出し、何かと紐付けようと必死に記憶を辿ってみる。けれど何の意味もなさなかった。

 情景はなんとなく浮かんでくるものの、自身の事に関するものは何一つ思い出せなかった。自分という存在を、水辺で見たことはあったはずなのに。姿形、顔すら思い出すことが出来ない。

 そもそもそれが自分なのか、いまの『自分』なのかも、わかる術は無かった。

 そこではたと気づく。

「……あの」

「何だ」

「俺は……その、誰、ですか?」

 女が言う呼称。けれどそれは与えられたもので、遠い遠い昔にいたはずの自分の呼称ではない、と思ったのだ。

 どうしてかは分からない。けれど違うような、気がした。ぐちゃぐちゃと歪んでゆく記憶に対して慌てて手繰り寄せて両手で覆うように抱きしめる。気付けば自身の両腕を抱きしめるような仕草をしていた。ぶるりと、身体が震える。こぼれ落ちて消えてゆく記憶が急に曖昧になったような気がしたからだ。

 先程までしっかりと見えていたイメージが歪むのが怖かった。

 どくりと、何かが音をたてたような気がした。実際たっているものなどないのに、その音は妙に心をざわめかせるのだ。

「昔々、というか今がいつか、知っているか」

「?」

「……歴史は適当に記憶しておくほうが良い。……後々、役に立つ」

「……はあ」

 閉ざされた口が開き、ぽつりぽつりと語られたのは。

 とある、なにものかの、話だった。

***

「今は俗に『平安』と呼ばれている世だ。西暦……と言っても分からないだろうから省くが、人々の暮らしぶりは身分によって顕著に違う」

「へいあん……?」

「お前がいた頃どう呼ばれていたのか覚えていないか」

「……」

 うっすらと、誰かが言葉にしていたような気もしたけれど憶えてなどいない。唇がかたどるその言葉と合致するような言葉を自分は思い出せもしなかったし、文献からも引っ張り出すことはできなかった。ゆるく首を振って、うつむく。

「俺は、昔の自分の記憶を全て持っていた。だから成功作だと言われた。珍しいというか初の成功作だと言うことで平等様があれこれ色々知識を叩き込んだせいで、無駄に博識になってしまった」

「……」

「何だ?」

「『平等』って、あの人の『呼称』ですか?」

 女の名前。初めて聞いたその言葉の羅列は違う意味合いとして知っている。【平等】……『差別がなくみな一様に等しいこと』そういう意味合いを持った言葉だった。

「ああ、あの女の名前だ。他には……観音菩薩とも、言われるか」

「……あの」

「なんだ」

「俺が『いた頃』って、なんですか」

 音が、鳴ったような気がした。左側に、何かがあったような気がした。何も音など鳴っていないのに、どくりと、底から響くような音が、耳の奥に聞こえたような気がしたのだ。記憶がざわめくように脳内を駆けずり回り、期待と怯えを交互に撒き散らしながら言葉を待っている。ぞわぞわと、這いずるような言葉にならない感覚が、体中を侵食していくようだった。

 ごぼごぼと激しく泡を吹き出すものは、ゆっくりと変化していった。鈍かった色味を帯びていた透明なものは硝子と呼ばれるもので、それらは綺麗に磨かれていった。その度に、泡は見えやすくなり、その先にあるものを歪ませながら映し出すようになった。

 積まれてゆく本は度々大量に持ち出され、そして別のものが大量において行かれた。

 変化がないと思っていたこの部屋ですら、些細な、けれど明確な変化があった。

 そういえば。

 自身の身体を、両手をじっと見つめる。

 いくぶんか大きくなったように見えた。そういえば、着物は度々着替えが渡されていたが、少しずつ大きくなっていたようにも、思える。

 それでも。

「……そういえば、なんで、自分は『俺』って、言うんだ?」

「……」

 ぼろぼろと、こぼれ落ちてゆく疑問。

 些細な、疑問。

「あの、俺……俺は、何でここにいるんですか? 成功作って、何のことですか?」

「……」

「あの」

「言葉通りの意味だ」

 言葉通りの、意味。

 紐付かないイメージが言葉が、こぼれ落ちてゆく。ぱらぱらと、こぼれてゆく。どくりどくりと、左側から音が聞こえるような気がした。

「俺は」

「お前は、あの女に『作られた』んだ」

「は?」

 思考が停止した。

 作る、という言葉を咀嚼する。【作る】……『手を加えて、もとと違ったものに仕上げる』

『元と』『違ったもの』に『仕上げる』

「……手を、加えて……何に?」

「……」

 思い出すのは、隣人たちの姿だった。

 欠けた腕、欠けた口、欠けた足。不自由な言葉、不自由な耳、声、言葉、何かが『欠けていた』それら。

 記憶が吹き出してくる。皆一様に感情というものが欠落しているようだった。昔の自分と同じように、意思を、自我を、もっているのかいないのか、わからないまま時だけを悪戯に過ごしていた。二度と同じ人が来ないドアの先。一体どうなっているのか、何が広がっているというのか。

 どくりと、音のしない左胸が鈍く痛んだような気がした。

「成功、じゃない……じゃあ、失敗作だって、あるんだ。失敗……そんな、だって」

「ああ、見たことがあったのか」

「え?」

 どくりと、音が聞こえた。

 はっきりと、聞こえた。

「お前の呼称は『8521』俺は『953』……数の間にその数だけ『失敗作』がある。もちろん今も作り続けている。確か、今は1万……」

「ちょ、ちょっと待って……俺は、作られた? えっと、何で!? だって人は両親がいて……」

 ぐるぐると巡るのは人の生体についてという本だった。人体の成り立ち、人の営み、それらを記憶と合致させることはできなかったが知識としては知っていた。人が産まれる際に行われるそれらを、いるべきはずの大人達を、自分は知らなかった。

 兄と呼ぶであろうその人物が平等と呼んだ女が親なのだろうかと、そんなことがかすめたが何故かそうであるという感覚にはならなかった。

 親、という感覚がどういうものかは分からなかったけれど、文献における『親』と、あの女性があまりにもかけ離れていたからだ。

 どくりと、音が跳ねる。

「俺達は、人じゃない」

「え?」

「人の形を象ったもの。昔はまあ『人』だったけれど」

「……な、何を」

「『記憶』はあるんだろう? かすかでも。人だった頃の記憶は魂に宿る。まあ、覚えていない奴らが大半だろうし、それが出来たからここにこうしていると言っても良い」

「……意味が分からない」

 どくり、どくりと、音を奏でる。

 そう、左胸にあるのは。

「もう一度言おうか。俺達は、人じゃない」

「……人、じゃ、ない? じゃあ俺達は……」

「俗称、呼称は『花人(はなびと)』役目はこの冥界における『信仰心』を集めること。そのためにあの女は輪廻する魂の中でも前世の記憶を持った稀有な魂を探している。そのために多大な犠牲を払って」

 心の臓。それが、あったはずだった。

 今はもう音のならないそれを握りつぶす。いや、微かに動いているのかもしれない。もう、よくわからなかった。

「たま、しい?」

「人と呼ばれるものは『人』として生きて、死んで、輪廻を巡ってまた産まれる。そう言う理の中で生きている。それをあの女は勝手にその輪廻から取り出したんだ。巡るはずの魂を、つまみ上げて、加工して、別の何かに、仕立て上げた」

「……別の、何かって……だってそんな……」

「『神様』みたいなことを。……な。あれは、神だから」

 後に触れることになる、世界中の神話、経典の中で語られる神々の『戯れ』

 まさしくその言葉が、相応しい所業だと思う。

 笑みを浮かべて、連れてきた隣人。自身が失敗したというそれらを引き合わせてあの女は何を思っていたのだろうか。あの失敗作は一体どうなったのか。二度と顔を合わせることが出来ないそれらがどうなったかなど、想像に堅くない。

 人の魂を、人の輪廻を捻じ曲げる権利が誰にあるというのか。

 あの女はそんなに偉い神様だというのか。

 ぐるぐると途絶えない思考が、疑問が、想いが、渦巻いてこびりつく。隣人たちの後ろ姿が、声なき声が、一斉に自身を攻めているような錯覚に陥る。思い出す。音を。声を。聞こえなかった叫びを。そして。声を知らない、否、声を忘れてしまったそれらの慟哭が、耳をつんざいたような気がした。

 虚ろで、何も映していないその目も、昔は尊いものを映し、生きていたのだろうか。

 どんな人生を生きて、どんな景色を見て、どんな幸せを尊んでいたのだろうか。

 せり上がってくる何かを止めることはできなかった。

 ごほりとむせた。けれど、何も吐き出せるようなものはない。

「……そんな、おかしい。だって、俺は何も悪いことなんてしてない! 覚えていないけど、でも、人じゃなくされるほどの罪なんて、した覚えなんて無い!!」

「俺は昔のことを覚えてるが、もちろんそんな事をした覚えは無かったな。かれこれ5回目だが」

「……え?」

 耳慣れない数字の接続に、耳が誤作動を起こす。

「『現界』と呼ばれる俺達が昔いた場所に行くのは『5回目』だと言ったんだ」

「……どういう、こと」

「『花人』は輪廻から外れた人ではないもの。だが、責務柄現界に降りなければ何の意味もない。人にまぎれて生きなければいけない」

「意味がわからない」

「人を懐柔するには人であること。木を隠すなら森の中。『花人』は人として生きて人ならざるものとして死ぬ。人の信仰心を集めるために自身を神にする」

「……」

「ときに龍、ときに雷神、自然界の神になることもあれば俗物的な治世の導き手になることもある。そうやって『奇跡』を起こす」

「どうやって」

「こうやって、だ」

 それは音もなく変化した。先程までぶすりとした無表情で淡々と言葉を紡いでいた男は消失し、そのかわりに現れたのは。

「狐。古くから根付いている信仰対象は意識操作し易い」

 ふわりと尾っぽを丸め、目を細めたのは美しい真っ白な狐。酷く美しく毛並みの良い真っ白な狐がそこにはいたのだ。

 目をこらしても、こすっても、その姿は変わらない。

 狐に化かされていたのだと笑って終わってしまえばどんなによいか分からない。夢だったのだと一蹴する事ができればどんなに良かったかしれない。

 けれど、これは現実なのだと。

 一瞬のうちに白い狐は掻き消えて、そこには先程まで座っていた男が行儀よく正座した姿に変化した。目を瞑って開いてみても、代わりはしなかった。

 そう、それは。

 現実だった。

***

 悪い夢なのだと、これは夢の出来事なのだと。

 何度望んだかしれない。

 あの男は自身の名前を953と名乗った。それはきっとあの女だけが使うものなのだろうと別の名前を聞いてみたが、頑なに教えてくれようとはしなかった。

『今ここに俺がいるということは、死んだということだ。また記憶を思い出す年齢になるまで現界で生き、そのときには俺は別の何かになる。名前なんて無意味だろう』

 男は言った。

 ここは中陰の地。俗称を『冥界』と呼ばれる世界なのだとそういった。

 俺は一度死んで、いや、何度か死んで生まれ直してその輪廻の何度めかで勝手に摘み取られた哀れな被験体であることを、知った。そこでたまたま『成功』してしまったものだったと。

 おとぎ話のような、壮大な世界観の話だと笑うことが出来たらどんなに良かったか知れない。相変わらずの、この狭い世界の中でそう思った。

 あの男はあの日からふらりと現れるようになった。

 その手にはたまに本、たまに知らない道具、俺は『好奇心』という感情を知った。いや、取り戻したという方が言葉として当てはまったかもしれない。

 話を振ればかえってくる。分からないことがあれば同意されることもあるし、否定されることもある。もちろん、肯定されることもあった。

 それは俺にとって、様々なことへ興味をもつきっかけになったのだ。自分が発した感情に何らかの応対が返ってくること。それは、とても新鮮で、心を満たしたのだ。

 空っぽになっていた心が少しだけ熱を帯びたような気がした。

 

 男は決して声を荒げたりなどしないし、笑ったりもしない。それでも意思をしっかりと持っていた。それがどの隣人よりも人であり、それが、とても嬉しかった。

「これは……?」

「唐時代に作られたものだな。こっちは弥生時代に使用されていた道具だ」

「……!」

 淡々とした言葉で紡がれる言葉はまるで冷たい石のようだった。血の通わない人形のように美しいその横顔は、どこかあの女を思い出させる。女の子供だと言っても多分気づかない程度にはその姿というか纏う気が似ていた。

 そんなことをふと口にすると、男は盛大に顔を歪めて部屋を出ていった。程なくして戻ってきたその手にはきらりと光る磨かれた石が握られていて、思わず身を乗り出す。珍しいものは単純に興味を持てるようになったのだ。

 そわそわと覗き込んで、ビクリと身体がはねた。

「自分の顔を見たのは初めてのようだな」

「……なにこれ」

「人の顔をあんな奴と『似ている』なんて言われた事が腹立たしかったからな」

「……」

 それは硝子とも違った石だった。きらきらと炎の光を反射し、世界を反転し映し出す。そこに映っていたものは。

「……これ『誰』」

「『自分』だろう。紐付けられないか」

「……られない。気持ち悪い……」

 自分……その人自身。俺という、存在のはず。

 そっと鏡石と呼ばれるそれに指を近づけてみる。映し出された顔に指を押し当ててみる。気持ち悪かった。これは、いったい『何』なのだろう。

 ぺたぺたと触るその指の感覚と、目の前で繰り広げられる何か。映し出されたものは確かに自分であるはずなのに、それはひも付きはしなかった。

 鮮やかな紫色の髪。春にそよいでいるようなみずみずしい草の色をした、眼。そういえば女の髪の毛も水の色を湛えていた。不思議な色をしていた。

「くろ、だった気がする」

「普通は黒だろうな」

「……気持ち悪い」

「とある種族は神様の一言で『分かりやすく頭を色付けされる』と聞いたことがある。この場所ではある意味での記号なんだろう。見分けるための」

「……あの女が?」

「いや? この世界は10人の王が収めていて、それらは様々な『神様』だと言う話だ」

 背中に何かが走ったような気がした。

 あんな女が、他に9人もいるのか。そう思っただけでぞくりと身体がこわばる。指先で不思議な色で染められた髪の毛をつまんで見る。そういえば、肩に付くくらいに伸びたそれを意識したことは無かった。今まで何でこんな色に畏怖を抱かなかったのだろう。

 考えたところで答えは出ない。いや、分かっては、いた。

「……俺、本当に……なんにも、考えていなかったん、ですね」

「こんな場所に閉じ込められて、別に縛られているわけでも拘束されているわけでもないのに『ここから出よう』と思わなかったんだろう? 考えていないという言葉はまあ、正しいんだろうな」

 ぼんやりと見たのは、その先に存在している『扉』だった。

 鍵がかかってはいるのだろうか? その先に行きたいなどと、考えたことも無かった。この場所が居心地がいいわけではない。ただどの事象にも、興味というものが、無かった。

 今はどうだろう?

 この場所だけではない、その先を見たいと思っているのだろうか。

 概ねそこにいる地面から、立ち上がってみる。

 その行為だけでも身体がふらりと揺れた。

 数歩先にあるその先の世界へつながる一つの入り口。本の中と遠い記憶が紐付いた世界が、本当に目の前に広がるのだろうか。

 空を、見られるのだろうか。

 緑を、見ることが出来るのだろうか。

 外の世界は、自分が知っている、記憶の世界とは全く異なる世界かもしれない。ここは知っている『現界』と呼ばれている場所ではないらしい。冥界という世界は、一体どんな場所なのだろう。

 この部屋から出たいと、何もかも捨て去ってまで思っていたかと問われれば、そこまで大それたことなんて思っていなかった。ふらふらと、おぼつかない足で、その扉まで近づいて。

 それは、ただ沈黙したまま。そこにあった。言葉を発さず、ただそこにあるだけのもの。この部屋と、外を隔てるもの。

「……」

 すっと、音も立てずにその扉は、開いた。

「!」

 瞬間、何一つそこから全てが消えた。

***

 音がないということが、こんなにも痛いものだと初めて知った。

 その世界はただただ真っ白で、目が潰れそうなほど『なにも』なかった。くらむような世界、色のない空間、立っているのか座っているのか、感覚が全て消え去って、ただただあるがまま、そこにあるような感覚。

(ああ、そうだ)

 この感覚を、知っていた。

(そうだ。これは、あのときの)

 幾重にも重なって、否、離れていて、光になって、白に溶けて、全ての自我が四散して、そこにはただあるがままの何かが、結晶になって、そして。

(死んだときの、世界だ)

 うつくしいという言葉は、不似合いなほどに。何もないその世界。暑くもなく、寒くもなく、溶けるように消えてゆく、感覚。

 ふわふわと浮いていることすら、忘れてゆく。とろとろに溶け出して、消えてゆく。

(ああ、そうか、そうだ。こうやって、俺はいなくなって)

「そう、そうして君はまた生を得るんだ!」

 全ての幸福を一瞬にして打ち砕くような、無慈悲な声が耳を思いださせて、身体を思いださせて、とろけていた感覚が水を染み込ませるように再構築されてゆく。

 それはまるでパズルのように、あるべきものをあるべき姿に変化させてゆく。

(ああ、ひどい)

 構築されてゆく自分という何かを、まるで他人を見るような感覚で受け入れる。

 いったいこれは何なのだ。

 いったいこれは、何だというのだ。

 酷く滑稽な、神様の『遊戯』だ。

 言葉と記憶が、全て綺麗に当てはめられてゆく。

 過去、何者かであった自分を思い出して、泣きたくなるほど遠い昔の自分を思い出して。

 そして。

「ああ、ようやく『完成』したんだね」

 ドアの外、世界の外。

 その女は酷く興奮したような表情を浮かべて立っていた。